Размер видео: 1280 X 720853 X 480640 X 360
Показать панель управления
Автовоспроизведение
Автоповтор
洞爺丸台風のやり取りは当時石狩丸の通信員だった坂本幸四郎氏の書いた本が非常に印象的です。
コメントありがとうございます。坂本氏の著書は私も持っています。洞爺丸台風の時の各船に乗務していた通信士の大半が殉職しています。そんな中で、業務を行わなければならなかった坂本氏の気持ちは如何ばかりかと思います。
台風の通過後、数回函館山に父親と一緒に登りました、船底を見せて浮いている連絡船を見ました(私が幼稚園の頃です)。
コメントありがとうございます。貴重な体験談ありがとうございました
調子に乗って書き込みます。数回目の登山の日、父親が「あっちの方にあった船が、こっちの方にある、動かしたのかな?」と言っていました。船底の赤色が記憶に残っています。その後いつの間にかなくなっていました。
第十一青函丸には私の父親の親友が通信掛として乗船していたとのことです(遺体は挙がらなかった)洞爺丸の近藤船長と同様に予備船員として事故に遭いました。私の生まれる6年前の事故でしたが、無念な思いをよく口に出していました。父親に洞爺丸台風の様子を聞こうとしても機嫌が悪くなるので、ついに聞けずじまいでした。
コメントありがとうございます。お父様も同僚の方が多数犠牲になられたので、さぞかし悔しかったのではと拝察致します。
先日青函連絡船記念館に行き色々な船の写真と共に沈没と書いてあり、気になりこの動画を見ました。とんでもない事件が起きていたんですね、
コメントありがとうございます。洞爺丸だけが取り上げられることが多いため、何か気になって他の連絡船の動画を作成しました。
大体洞爺丸台風の解説動画って言うと洞爺丸だけだから、ちょうど調べてた自分にとってはとてもありがたい。
コメントありがとうございます。とても嬉しいお言葉です。
第十一青函丸には父方の親戚が乗務していて殉職したそうです。
コメントありがとうございます。洞爺丸台風で洞爺丸を含め5隻沈没とか洞爺丸他4隻沈没といつも表現されるので違和感を感じて調べた最初の船が第十一青函丸でした。
亡くなられた全ての方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
コメントありがとうございます。私も同じ思いです。
洞爺丸台風については日本海に抜けた後の急激な変化を誰も予想できなかったと思います。また函館港が青森港と違いちょうど風雨を受ける形になっていたため、たとえ出航見合わせていても被害は大きかったと思います。資料を見れば見るほど、一連の遭難事故は避けられなかったものだと最近痛切に思うようになりました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
天候の急激な変化がいかに予測困難かは昭和40年に起きたマリアナ海域漁船集団遭難事件でも同様ではないでしょうか。
コメントありがとうございます。当時の観測体制では、仰る通り予想は出来なかったと思います。
第十一青函丸は、戦後の補強工事がかえって船体の歪みを悪化させてしまったと言われていますね。
コメントありがとうございます。沈没後早い段階でそのような話があったようです。なにかと故障が多く、そのためかGHQの指定からも外れています。また沈没の8年前には座礁事故もありあまり運のいい船ではなかったようです。
摩周丸は静岡じゃなくて神奈川の浦賀船渠にいましたよ
ご指摘ありがとうございます。確かに浦賀船渠は神奈川県ですね。申し訳ありませんでした
【ゆっくり】は見逃せない緻密なクリエイターによる奥深い魅力があるっすね。
コメントありがとうございます。不器用な年寄りでも動画が作れる【ゆっくり】には感謝しております。
日本十八番の「産めよ増やせよ」
コメントありがとうございます。その通りですね
洞爺丸台風のやり取りは当時石狩丸の通信員だった坂本幸四郎氏の書いた本が非常に印象的です。
コメントありがとうございます。
坂本氏の著書は私も持っています。
洞爺丸台風の時の各船に乗務していた通信士の大半が殉職しています。
そんな中で、業務を行わなければならなかった坂本氏の気持ちは如何ばかりかと思います。
台風の通過後、数回函館山に父親と一緒に登りました、船底を見せて浮いている連絡船を見ました(私が幼稚園の頃です)。
コメントありがとうございます。
貴重な体験談ありがとうございました
調子に乗って書き込みます。
数回目の登山の日、父親が「あっちの方にあった船が、こっちの方にある、動かしたのかな?」と言っていました。船底の赤色が記憶に残っています。
その後いつの間にかなくなっていました。
第十一青函丸には私の父親の親友が通信掛として乗船していたとのことです(遺体は挙がらなかった)洞爺丸の近藤船長と同様に予備船員として事故に遭いました。私の生まれる6年前の事故でしたが、無念な思いをよく口に出していました。
父親に洞爺丸台風の様子を聞こうとしても機嫌が悪くなるので、ついに聞けずじまいでした。
コメントありがとうございます。
お父様も同僚の方が多数犠牲になられたので、さぞかし悔しかったのではと拝察致します。
先日青函連絡船記念館に行き色々な船の写真と共に沈没と書いてあり、気になりこの動画を見ました。とんでもない事件が起きていたんですね、
コメントありがとうございます。
洞爺丸だけが取り上げられることが多いため、
何か気になって他の連絡船の動画を作成しました。
大体洞爺丸台風の解説動画って言うと洞爺丸だけだから、ちょうど調べてた自分にとってはとてもありがたい。
コメントありがとうございます。
とても嬉しいお言葉です。
第十一青函丸には父方の親戚が乗務していて殉職したそうです。
コメントありがとうございます。
洞爺丸台風で洞爺丸を含め5隻沈没とか洞爺丸他4隻沈没といつも表現されるので違和感を感じて調べた最初の船が第十一青函丸でした。
亡くなられた全ての方々のご冥福を心よりお祈りいたします。
コメントありがとうございます。
私も同じ思いです。
洞爺丸台風については日本海に抜けた後の急激な変化を誰も予想できなかったと思います。また函館港が青森港と違いちょうど風雨を受ける形になっていたため、たとえ出航見合わせていても被害は大きかったと思います。資料を見れば見るほど、一連の遭難事故は避けられなかったものだと最近痛切に思うようになりました。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
天候の急激な変化がいかに予測困難かは昭和40年に起きたマリアナ海域漁船集団遭難事件でも同様ではないでしょうか。
コメントありがとうございます。
当時の観測体制では、仰る通り予想は出来なかったと思います。
第十一青函丸は、戦後の補強工事がかえって船体の歪みを悪化させてしまったと言われていますね。
コメントありがとうございます。
沈没後早い段階でそのような話があったようです。
なにかと故障が多く、そのためかGHQの指定からも外れ
ています。
また沈没の8年前には座礁事故もありあまり運のいい船では
なかったようです。
摩周丸は静岡じゃなくて神奈川の浦賀船渠にいましたよ
ご指摘ありがとうございます。確かに浦賀船渠は神奈川県ですね。申し訳ありませんでした
【ゆっくり】は見逃せない緻密なクリエイターによる奥深い魅力があるっすね。
コメントありがとうございます。
不器用な年寄りでも動画が作れる【ゆっくり】には感謝しております。
日本十八番の「産めよ増やせよ」
コメントありがとうございます。
その通りですね